日本を代表する絵付け磁器、九谷焼
九谷焼とは、石川県南部の南加賀に発祥し、現在に至るまで受け継がれる、色絵による装飾を特徴とする磁器です。古くから日本の数寄ものを始め、世界中にもファンをもつ日本を代表する磁器です。皿や茶碗などはもちろんのこと、美しさからアクセサリーとしても広く愛されています。
九谷焼の特徴は、その鮮やかな絵付けにあります。特に力強く、絵画的な絵付けがされているのが特徴です。最初期には中国の景徳鎮の影響を受けつつも、同時期に活躍した狩野派や琳派の技法を取り入れつつ成長を続け、現在においても発展し続けています。
伝統が生み出した様々な絵付け
代表的な絵付けの技法には次のような種類があります。
色絵・五彩手
九谷庄三により発見された能登呉須顔料による紺(群青色)によるラインを中心として、黄・緑・紺(群青)・紫・赤の九谷五彩を用いて描く方法です。
青手
青を基調として緑、黄色、紺、紫を加えた絵柄。赤を用いず、磁器の全面をうめつくすように絵付けを行います。隙間なく埋め尽くされるその色は豪華な印象を与えます。
赤絵・金襴手
赤いラインと赤い塗りに、金のアクセントをあしらった手法。江戸後期の飯田八郎右エ門により完成され、飯田屋風とも呼ばれています。
九谷焼の歴史
九谷焼の歴史は江戸時代の初期、1655年ごろ当時加賀支藩の大聖寺藩初代藩主であり、茶人であった前田利治が九谷村で陶石が発見されたことを機に始めたと言われています。藩士の後藤才次郎を備前有田(佐賀県)へ磁器の技能習得のために派遣、九谷に窯を作りました。しかし、この九谷窯は1730年ごろ、急遽閉鎖されます。その理由はわかっておらず、九谷のミステリーであるとされています。この時期に製造されたものは古九谷(こくたに)と呼ばれています。
九谷窯の閉鎖から約100年の1807年、加賀藩は九谷焼の再興を目指し、京都から当時著名な陶芸家であった青木木米を招聘し、金沢に春日山窯を作りました。このことを契機として、若杉窯、蓮台寺窯、小野窯、吉田屋窯など数々の窯が開業し、見事に再興しました。この時期の九谷は再興九谷と呼ばれています。す。
しばしの後、小野窯の九谷庄三が全国へ磁器の指導をして回るうち、後に能登呉須と呼ばれる顔料を発見、さらに明治初期には輸入絵具をいちはやく九谷焼に取り入れ、庄三風と呼ばれる九谷焼を確立しました。この庄三風は現在に至るまで代表的な九谷焼の一つとされ、多くの製品を輸出、特に海外において九谷焼といえ庄三風を指すほどになりました。
進化し続ける九谷焼
昭和から戦後にかけて、それまで実用品として捉えられていた九谷焼を芸術品として扱う価値観が西洋よりもたらされます。それにより、現在に至るまで、人間国宝の吉田美統による「釉裏金彩」など、新しい作風・表現方法が作られています。九谷焼は伝統に礎にしつつも、常に進化を続けています。